キトラ古墳を見た後-その①
われわれは、キトラ古墳の壁画を見学した後、明日香村に点在する遺跡を回った。
まず、文武天皇陵、高松塚古墳、鬼の雪隠、鬼の俎、橘寺の方へと向かった。
それぞれがどういう位置関係か地図で確認する。
せっかくなので、江戸時代に書かれた聖蹟図志で確認したい。
◎現在の地図と位置関係
方角的には、左下にある「南」の漢字の向きが、右斜め下に向いてることから、右斜め下が南ということになる。
「南」の右横に書かれている「岩屋」が現在の、飛鳥駅の北側にある岩屋山古墳である。
そうすると「越村」右横の道と川に挟まれた辺りが、現在飛鳥駅がある位置となる。
したがって、キトラ古墳は右斜め下に伸びてる「土佐町道」の方向、地図からははみ出たところにあると考えられる。
おそらく、当日通った道は、キトラ古墳から土佐町道を下って右折し、文武天皇陵と高松塚古墳へ、そして鬼の俎、俎の間を通る橘寺に続く道を自転車で進んだ。
当日実際は、スマホの地図で適当に回ったのだが、後日こうして聖蹟図志で回ったコースを確認すると、見落とした遺跡がいろいろあることがわかった。
なので今度はこれを片手に回って行きたい。
◎文武天皇陵
文武天皇について
文武天皇は、天武天皇と持統天皇の孫にあたり、697年8月に天皇に即位した。
『日本書記』の記事は、この文武天皇の即位で終わる。
また、文武天皇は、教科書で「律令国家」という単語とセットで出てきた「大宝律令」を制定した時の天皇として習った。
現在に続く年号制度
大宝律令の制定は、白村江の戦いの敗戦以来、急ぎ目指した天皇中心の強力な「中央集権国家」建設の総仕上げといえる。
西暦701年、大宝元年に制定された。
この制定の年「大宝」という年号から、本格的な国家としての年号の使用が始まり、以来、平成まで1300年以上も続いている。
「大宝」以前にも、大化、白雉、朱鳥という年号があったが、いずれも朝廷の一部で使用され、使われる時期も断続的であった。
したがって、「大宝」こそが国家としての最初の本格的な年号と言うことができるらしい。
本当の文武天皇陵
写真に解説版には、文武天皇がこの陵に707年に火葬の上、葬られたと記されているが、本当の文武天皇の陵は別のところにある説が有力らしい。
本当の陵は、明日香村大字平田に所在する「中尾山古墳」であるというのがみんなの説だ。
明日香村のHPの「中尾山古墳」を紹介した記事によると
享保年間になると並河永が著わした『大和志』の中で文武陵について「平田村に在り、俗に中尾石墓と呼ぶ」と記されており当時中尾山古墳が文武天皇陵と考えられていたことがわかります。
と記載されている。
江戸時代には現在と違い、中尾山古墳を文武天皇陵としていたということである。
上記の聖蹟図志を見ると、「文武帝陵」の文字の位置が、「高松塚古墳」の文字より北側に書かれており、現在の文武天皇陵と髙松塚古墳の位置関係とは異なり、中尾山古墳を文武天皇との認識のもとに書いたものだと推測できる。
その②につづく
参考文献
寺崎康弘『若い人に語る奈良時代の歴史』(吉川弘文館、2013年)
五味文彦・鳥海靖 編『もういちど読む山川日本史』(山川出版社、2010年)
仁藤敦史 監修『学習まんが日本の歴史』2(集英社、2017年)