古墳追っかけブログ

古墳、それは最後のフロンティア

行燈山古墳(崇神陵)に行ってみた

2020年2月、われわれは、奈良県天理市にある行燈山古墳を訪れた。

崇神陵に治定されている古墳時代前期の前方後円墳だ。

 

行燈山古墳とその陪塚とされる3つの古墳の位置関係が確認できる。

(大和天神山古墳・南行燈山古墳・アンド山古墳)

 

行燈山古墳を北西方向から撮影

土堤の高さからも古墳の巨大さがうかがえる

(右に少し写ってるのがアンド山古墳)

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綺麗に整備されている

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拝所に先客がいたため、前方部の左側に回る

すると土堤を登れるように階段があるので登ってみた

(草もきれいに刈られている)

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綺麗に水をたたえる

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向こう側に渡土堤が見える

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 逆側は田んぼが迫る

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前方部へ向かおうとしたが、工事で通行止めとなっている

山の辺の道迂回路こっちと矢印が出てるが、矢印が何を指しているのかよくわからなかったので、諦めて拝所に向かう

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高い

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 拝所の砂利きれいに整備されている

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まず、豪の高さに圧倒され、また、本当に綺麗に整備されていて、古代、大きな力をもった支配者の陵にふさわしい威厳を保った古墳であった。

 

しかし、豪の大きさ、形など、築造当時からの姿を保っているかと言うと話しは別だ。

 

多分に後世の影響を受け、今の姿となった。

 

特に、「文久の修陵」では、当時水不足を解消するための溜池新設の計画と話と重なり、一般御陵の規格より堀を広くし、水を欲する農民の希望に沿った方策がとられたようである。

 

古墳が昔から、住民の生活に密接に関係してきた一例である。

 

基礎データ

被葬者:崇神天皇

築造時期:4世紀前半

墳形:前方後円墳

墳丘長:242m

所在地:奈良県柳本町字行燈

 

 

キトラ古墳を見た後ーその②

◎前回の続き

その①では、聖蹟図志でキトラ古墳を見た後の、見学コースを確認した上で、文武天皇陵までを記載した。

 

今回はその続き。

 

高松塚古墳

高松塚古墳の詳しい説明については、説明版のとおりである。

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築造当時の荘厳さを想起させるぐらい、綺麗に復元されている。

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◎鬼の俎、鬼の雪隠

次に訪れたのは、鬼の雪隠と鬼の俎。

前回の記事で確認した聖蹟図志には、鬼厠、鬼魚板と記載されている。

 

道路挟んで、下に鬼の雪隠、上に鬼の俎。

訪れて初めて位置関係わかった。

その位置関係から、欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものという説があることも納得できる。

 

また、旅人を俎で料理した後、雪隠で用を足したという説も可能性が無いとは言い切れない。

鬼の俎・鬼の雪隠 - 公益財団法人 古都飛鳥保存財団|日本人の心の故郷『飛鳥』

 

鬼の雪隠の方は、囲いはされているがかなり接近して、見学することが出来た。

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◎橘寺に向うが

次に橘寺に向かった。

途中、右手に聖徳皇太子誕王所と大日本佛浴最初霊地の石柱が建ってるのが見えた。

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後で調べたら、裏参道らしい。

 

自転車を置き、石柱の間をとおり、奥に進むが田畑が広がり、遠くに橘寺が見えるだけであった。

 

一旦、自転車の方へ戻り橘寺へ向かおうとするが、鬼の俎、雪隠のところにいた孫を連れたじいさんばあさんの一行も、同じように自転車でやってきた。

 

このまま進むと、よその家族と一緒に回ることになるので橘寺は諦め、元来た道を引き返し、天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)に向かうことにした。

 

 

 

キトラ古墳を見た後-その①

われわれは、キトラ古墳の壁画を見学した後、明日香村に点在する遺跡を回った。

 

まず、文武天皇陵、高松塚古墳、鬼の雪隠、鬼の俎、橘寺の方へと向かった。

それぞれがどういう位置関係か地図で確認する。

せっかくなので、江戸時代に書かれた聖蹟図志で確認したい。

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聖蹟図誌

 

◎現在の地図と位置関係

方角的には、左下にある「南」の漢字の向きが、右斜め下に向いてることから、右斜め下が南ということになる。

 

「南」の右横に書かれている「岩屋」が現在の、飛鳥駅の北側にある岩屋山古墳である。

 

そうすると「越村」右横の道と川に挟まれた辺りが、現在飛鳥駅がある位置となる。

 

したがって、キトラ古墳は右斜め下に伸びてる「土佐町道」の方向、地図からははみ出たところにあると考えられる。

 

おそらく、当日通った道は、キトラ古墳から土佐町道を下って右折し、文武天皇陵と高松塚古墳へ、そして鬼の俎、俎の間を通る橘寺に続く道を自転車で進んだ。

 

当日実際は、スマホの地図で適当に回ったのだが、後日こうして聖蹟図志で回ったコースを確認すると、見落とした遺跡がいろいろあることがわかった。

 

なので今度はこれを片手に回って行きたい。

 

文武天皇

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文武天皇について

文武天皇は、天武天皇持統天皇の孫にあたり、697年8月に天皇に即位した。

『日本書記』の記事は、この文武天皇の即位で終わる。

 

また、文武天皇は、教科書で「律令国家」という単語とセットで出てきた「大宝律令」を制定した時の天皇として習った。

 

現在に続く年号制度

大宝律令の制定は、白村江の戦いの敗戦以来、急ぎ目指した天皇中心の強力な「中央集権国家」建設の総仕上げといえる。

 

西暦701年、大宝元年に制定された。

 

この制定の年「大宝」という年号から、本格的な国家としての年号の使用が始まり、以来、平成まで1300年以上も続いている。

 

「大宝」以前にも、大化、白雉、朱鳥という年号があったが、いずれも朝廷の一部で使用され、使われる時期も断続的であった。

 

したがって、「大宝」こそが国家としての最初の本格的な年号と言うことができるらしい。

 

本当の文武天皇

写真に解説版には、文武天皇がこの陵に707年に火葬の上、葬られたと記されているが、本当の文武天皇の陵は別のところにある説が有力らしい。

 

本当の陵は、明日香村大字平田に所在する「中尾山古墳」であるというのがみんなの説だ。 

 

明日香村のHPの「中尾山古墳」を紹介した記事によると

享保年間になると並河永が著わした『大和志』の中で文武陵について「平田村に在り、俗に中尾石墓と呼ぶ」と記されており当時中尾山古墳が文武天皇陵と考えられていたことがわかります。

と記載されている。

 

 中尾山古墳 |指定文化財 |文化財

 

江戸時代には現在と違い、中尾山古墳を文武天皇陵としていたということである。

 

上記の聖蹟図志を見ると、「文武帝陵」の文字の位置が、「高松塚古墳」の文字より北側に書かれており、現在の文武天皇陵と髙松塚古墳の位置関係とは異なり、中尾山古墳を文武天皇との認識のもとに書いたものだと推測できる。

 

その②につづく

 

参考文献

遠藤鎮雄 訳編『史料天皇陵』(新人物往来社、1974年)

寺崎康弘『若い人に語る奈良時代の歴史』(吉川弘文館、2013年)

松木武彦『未盗掘古墳と天皇陵古墳』(小学館、2013年)

五味文彦・鳥海靖 編『もういちど読む山川日本史』(山川出版社、2010年)

仁藤敦史 監修『学習まんが日本の歴史』2(集英社、2017年)

 

【期間限定】キトラ古墳壁画を見に行ってきた

2018年5月、キトラ古墳の壁画見学のため、明日香村まで足を運んだ。

 

キトラ古墳奈良県明日香村に所在する円墳で7世紀から8世紀初頭頃に造られたと考えられている。

そのキトラ古墳の石室内に描かれた壁画を、文化庁が期間限定で公開しているのだ。

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壁画はキトラ古墳に隣接するキトラ古墳壁画体験館「 四神の館」内で公開される。

 

アクセスは

近鉄吉野線 壷阪山駅より徒歩15分または、近鉄吉野線 飛鳥駅より徒歩30分である。

 

われわれは、飛鳥駅の方がレンタサイクルがあり便利なので、飛鳥駅を選択した。

飛鳥駅へは、大阪阿部野橋駅から近鉄特急で39分、急行では45分かかる。

近鉄特急は乗車券の他に特急券(510円)が必要で、時間的にはあまり変わらないが、特急を選択した。

 

飛鳥駅からは、レンタサイクルを借りた。

何も考えずノーマル自転車を借りたが、後悔することとなった。

明日香を回るときは、絶対に電動自転車にすべきだったのだ。

 

さて、壁画の公開だが、期間限定といっても、平成28年から断続的に実施されており、今年の1月から2月にかけての公開で10回を数える。 

 『キトラ古墳壁画の公開』事務局 公式ホームページ

 

キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画があり、

そのうち、東壁「青龍,十二支・寅」が公開された第7回にわれわれは応募したのだ。

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壁画の見学は、10時5分からで時間があったので、「 四神の館」の地階にある展示室を見学した。

展示室は、無料で、原寸大の石室模型や壁画の映像を見ることができる。

https://www.asuka-park.go.jp/area/kitora/midokoro/#midokoro01

 

いよいよ壁画見学の時間となり、受付に向かった。

受付を済ませた後、壁画の展示室の入り口の前に、前の回が終わるまで他の見学者の人たちと2列になって並んだ。

参加者は十数名ぐらいだった。

 

そして、展示室の中に入る時間となった。

見学時間は10分間

 

壁画は、正面と横から見学できるように、ガラスの向こうに展示されていた。

 

最初、ガラスの向こうにある壁画を覗き込んだとき、どこに何が描かれているかまったくわからなかった。

 

展示室の前におかれていた解説版と、壁画に少しだけ残っていた赤色を突合せ、青龍と寅の位置関係を探した。

 

どういう位置関係かは、なんとなくわかってきたぐらいだったが、それでも古代に描かれたものが目の前にあるということで、感慨深いものがあった。

 

パンフレットに載っていた壁画

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壁画の見学終了後、キトラ古墳を写真におさめ、われわれは、明日香の地をノーマル自転車でめぐるたびに出た。

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基礎データ

被葬者:?

築造時期:7世紀から8世紀初頭頃

墳形:円墳

所在地:奈良県高市郡明日香村阿部山

今城塚古墳を盛り上げるキャラクターの登場⁈

われわれは、大阪府高槻市にある今城塚古墳を訪れた。

古墳時代後期の前方後円墳だ。

国の史跡には指定されているが、陵墓に治定されていない。

しかし、継体大王の真の陵墓と有力視されている。

 

現在宮内庁は、大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳継体天皇三嶋藍陵として管理している。

 

今城塚古墳と太田茶臼山古墳の位置関係を地図で確認しておこう。

太田茶臼山古墳は今城塚古墳から1.6㎞南西の方向に位置する。

 

 

今城塚古墳が、継体大王の真の陵墓であることは、 記紀などの史料批判、出土した埴輪の年代分析などの考古学的の成果により可能性が高くなっている。

 

その近年の学問的成果を陵墓の治定に反映させないのだろうか?

 

しかし、陵墓に治定されていないのが幸いし、われわれは、真の継体陵を自由に散策できる好機に恵まれた。

 

まずは、内堤に上ってみる。

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発掘された家、器台、大刀、盾、巫女、武人、力士、鳥などの形象埴輪が整然と並ぶ 。

 

埴輪祭祀場(はにわさいしば)が復元埴輪により再現されているのが最大の特徴だ。
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高槻市のHPでは、

「〜死せる大王との惜別と新たな大王の王位継承の場である殯宮(もがりのみや)を表現したとも考えられます」

と解説されている。

 

整然と埴輪は、並べられているが、

なぜ、このような並びなのか?

なぜ、殯宮を表現したと考えられるのか?

今後調べてみたい。

 

古墳のところどころには、説明版が設置されている。

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古墳の説明版に登場し、訪れたわれわれをナビゲートしてくれるのが、

継体大王の家来「ケッタイ」だ。

 

しかし、高槻市には、マスコットキャラクターの「はにたん」がいる。

しかも「はにたん」はこの今城塚古墳から出土した武人埴輪から誕生している。

この古墳に縁もゆかりもあり、高槻市の絶対的エースである「はにたん」を投入せず、

あえて継体大王の家来という設定で、しかも主人の名前をもじったキャラクターを

誕生させるセンスは理解できないが、この古墳を印象づけるには、

良いネーミングだ 。

 

つぎに内濠に降りてみる

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墳丘に上れるように階段上になっているので、墳丘にのぼってみる。

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儀式の場(北造出)が見える。

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さらに上にのぼる。

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後円部から前方部に続く道を辿ってみる。

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前方部から、北側の内濠を撮影

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南側の内濠におりてみる

南造出も綺麗に再現されている

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南側内濠

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 北西コーナーに立つ朝顔形埴輪

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古墳は、大変きれいに整備され、親子連れや犬と散歩する人など、高槻市民の憩いの場となっている。

訪れても外側から眺めるだけの古墳が多い中、前方後円墳の構造や規模感を立体的に体感できる素晴らしい古墳だ。

 

基礎データ

被葬者:継体大王?

築造時期:6世紀

墳形:前方後円墳

墳丘長:181m

所在地:大阪府高槻市群家新町

箸墓古墳を見に行ってきた

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箸墓古墳 池側の周濠 2019年1月19日撮影

見に行ったときは、池の水が抜かれ、普段池の水で見えない周濠部分があらわに

埴輪のかけら一つでも、水が抜いた勢いで出てきてないかと、ちら見してみても何も見えず

 

もっと近くで見たいなぁ

でも、宮内庁が治定する陵墓だからこれ以上近づけないよなぁ

「一、みだりに域内に立ち入らぬこと」と書いてあるしなぁ

と思ってたら

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箸墓古墳 2019年1月19日撮影

 

たまたま後日、この池側を歩けるイベントの情報をネットでゲット。

 

3月3日、桜井市箸中区主催『箸中・歴史教室〜箸中ロマン古墳ウォーク!〜』

先着100名で募集している箸墓古墳の池側の周濠を歩ける限定特別企画

 

翌日、会社の昼休みに郵便局へ駆け込み、応募のための往復はがきをゲット&セント

 

数日後、返信があり、その結果は、

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箸墓古墳 池側 2019年1月19日撮影

落選。

受付初日の2月1日の消印で699名の応募があったらしい

この企画を知ったのは、5日

 

これって完全に周回遅れじゃねぇー

てか、最後尾からのスタートじゃねぇー

 

次からはこんな悔しい思いをしないために、すかさず桜井市のマスコットキャラクター『ひみこちゃん』のTwitterをフォロー

これで箸墓に関する情報に周回遅れになることはないだろう

 

 

基礎データ

被葬者:倭迹迹日百襲姫命

築造時期:3世紀中頃

墳形:前方後円墳

墳丘長:278m 

所在地:奈良県桜井市箸中